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今日からお前は俺のもの

last update publish date: 2026-11-03 14:01:30

 指先がすっと髪にかかった。

 日本人離れした、琥珀色の瞳。

 見透かされているようで、美咲は慌てて顔を逸らした。

「か、からかわないでくださいよ……そんなこと、私が一番よくわかってます」

 少し飲みすぎたせいだろうか。

 じわりと涙が目の端に浮かんできた。

 気持ちが、制御できなくなった。

「……こんなの、平気なわけないじゃないですか」

 美咲は勢いよく立ち上がった。

 食卓を回り込むと、盃に口を付けている藤城課長を見下ろした。

「私、ついこの間までは学生だったんですよ? 奨学金を借りて、真面目に勉強して、憧れのこの会社にやっと入って……恋人だって、いたことないんです!」

「まあ、そうだろうな」

 美咲は、顔をあげて課長を睨んだ。

「それが、身に覚えのない借金で全部パー。私だって……人並みに、初体験くらい好きな人としたかった。課長のアホバカ、冷血の鬼っ!」

 美咲は、たまらず課長の胸を拳で叩いた。

 ――笑いたければ笑え、怒りたければ怒れ。

 この人の部下でいるのも、今日までだ。

 ところが、課長は怒りもせずに、美咲の手首を掴んだ。

「口先だけの同情に、一体何の意味がある。九百万円の借金が、消えてなくなるとでもいうのか」

 無機質な声に、美咲はひゅっと息を呑んだ。

 手首をつかまれたまま、美咲は怯まずに課長を睨み返した。

「それはないですけど。……せめて優しい言葉くらい掛けて欲しいのが、人ってものでしょう?」

 課長は眉根に皺を寄せた。

「では、そんなに嫌なら、なぜ一人で背負おうとする。お前ひとりで返せるものでもあるまい」

「だって、泣いたって誰も助けてくれません。父は逃げましたし……九百万円も貸してくれる知り合いなんているわけないし」

 課長が手首を放した途端、美咲の身体から力が抜けた。

 その場にへたり込み、青い畳の細かい目を無意味に数えた。

「なら、俺が出してやる」

「……え?」

「九百万円。俺が片づけてやる」

 美咲は目を丸くした。

「そんな……出してやるって、九百万円なんですよ?」

「何度も言われなくても、金額くらい覚えてる。それに、無理かどうかは、お前が決めることじゃない」

「でも、何で? 課長が、私のために……あ、代わりに何かひどいことをさせようとしてるんじゃ」

 身を庇うように自分の腕を抱いた美咲に、課長は至極真面目に言った。

「……何を考えてる。もちろん、タダではやらん。契約だ。四葉、俺の家に来い。無駄に広くて、いつも人手が足りていない」

「家に? 言っときますけど、課長に身体は売りませんから――いたっ」

「酔っ払ってるのか、このあほ」

 軽く小突かれ、美咲は頭に手をやった。

「お前に手を出すほど、女には困っていない。住み込みのメイドとして、俺の家で働いてもらう。衣食住はそろっている。どうだ、悪くないだろう。会社を辞める必要はない、副業申請も通してやるぞ」

「衣食住……」

 ――いい響きだ。家賃も食費もかからない。会社も辞めなくていい。

 おまけに、身体も売らずに済むのなら。

 美咲の顔色を読んだように、課長は条件を提示した。

「三年間だ、うちで住み込みのメイドとして働け。借金の額にかかわらず、それが俺の条件だ」

「三年間も、課長の家で暮らすってことですか?」

「ああ、そうなるな」

 ――苦手な冷酷上司と、三年間も?

「う〜ん……」

 思わずうなり声をあげた美咲に、課長は言った。

「なら勝手にしろ。確か、明日からは『キャンディちゃん』だったか?」

「わかりました、やりますっ。でも、その名前で呼ぶのは禁止です!」

 美咲は、右手をぴんと挙げた。

「ふん、最初からそう言え」

「あ、でも待って。返済期限は明日までなんです。闇金業者に返せなければ、お金を風俗店が立て替えることになっていて」

「連帯保証人の欄には、自分で署名したのか」

 美咲は、口をへの字に曲げた。

「……署名、しました。父の知人から、私の奨学金を借り換える書類だって言われて。連帯保証契約だなんて知らなかった」

「風俗店の契約は?」

「父が逃げた日の夜、男の人が三人押しかけてきて……その場で署名させられました」

「馬鹿だな。それは、完全に嵌められたんだ」

 美咲は、がっくりと項垂れた。

「それも、薄々分かってましたけど……今となってはどうしようもなくて。明日までに何とかしないと――」

「分かった。あとは俺に任せておけ」

 課長のため息が聞こえてきた。

「あ、あの、でも。失礼ですけど、そんなお金、課長がすぐに用立てできるとは思えなくて」

「人の懐事情を探るな」

 課長は、厳かに手を差しのべた。

 美咲がおずおずその手をとると、力強く引き上げた。

 真っ直ぐな目で美咲を見据え、静かな口調でこう告げた。

「誓え。これから三年間、お前を俺に預けると」

「え、それはちょっと怖いかも……」

「何だと?」

 課長の額に、青い筋が浮かび上がった。

「き、決めました! 借·金·の·こ·と·は·、課長に任せます」

「借金だけじゃない、全てだと言った」

「か、身体は売りませんからね?」

「だから、それはいらん」

「じゃあ、誓います」

 そう言って片眉を吊り上げた美咲を、課長はしばらく見つめていたが、やがて、呆れたように口元を緩めた。

「まったく、助けてもらう立場でよく言う」

 淡い琥珀色の瞳が、三日月のように細くなった。

 頭上にかざされた大きな掌。

 美咲が思わず目を閉じると、それは案外優しく降りてきた。

「よし、いい子だ。今日からお前は、俺のものだ」

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